松崎ドラマチック物件ツアー(Matsuzaki Dramatic Tour 2019)」

「それじゃ、いまからはじめまーす!」

2019824日-土曜日の午前10時、松崎は汗ばむほどの暑さだった。この日、ゲストハウス「たみ」に集ったのは、『にんげん研究大発表会2019』に参加する総勢50名ほどの大学生とその教員たちだ。「たみ」に収まりきらない人たちと、その話し声はおのずから室外へと溢れだし、JR松崎駅前に続く通り道は、普段とは違う賑わいを見せ始めていた。とはいえ、このとき到着したばかりの立教大学生たちと、彼・彼女たちを迎える鳥取大学生たちの距離感は、まだ何となくぎこちない。

「それじゃ、いまからはじめまーす!」そこにすっとした声が通りぬけていく。「たみ」を運営する合同会社うかぶLLC代表の蛇谷りえさんだ。朗らかながらも的を射たアナウンスが参加者に伝えられる。なかでも大学教員のわたしに最も届いたものは、「今日からの2日間、先生たちが何を言っても気にしないで下さい!」と、学生たちに伝えてくれたことだった。「誰もが主役になれる」ために、このように「主客をリセット」しながら物事を運ぶ姿勢は(*1)、「たみ」の宿主である蛇谷さんが多くの訪問客とつくってきた構えでもある。

同じく、「うかぶ」の共同代表である三宅航太郎さんからも、このツアーの後には「町への解像度が変わってくるんで」とのひと言が伝えられる。移住者であるご自身の体験や、2回、3回と重ねてきたこの企画への確かな手ごたえから発せられた言葉だと感じる。三宅さんも別のところで、「こんな感覚があるんだ」「そんな考え方もあるんだ」という驚きを忘れない心をもって、ゲストハウスの運営に臨んできたことを語っている(*2)。「町への解像度が変わる」体験が、「ドラマチック」でもあるためには、こうした心の構えに裏打ちされた感覚を持ち合わせることが、きっと重要なのだろう。

このような何気ない言葉にも、蛇谷さんと三宅さんがゲストハウスの運営を通じて築いてきた考え方や感覚を垣間見ることができる。今年もこうしたお二人の実践感覚に導かれながら、2019年夏の「松崎ドラマチック物件ツアー」がスタートした。

 

しんがり」から見えていた風景

まずは「たみ」から旧街道を通って、松崎駅方面へと歩き出す。昨年に続いて2回目のツアー参加となるわたしは、今回は最後尾の「しんがり」役として歩くことになった。先導する三宅さんの「物件解説」を聞くことこそ叶わなかったが、それでもいくつもの気づきを得られたツアーだった。例えば、「しんがり」だからこそ見えてくる風景に、前を行く人たちの後ろ姿がある。松崎の通りという通りを50名もの人たちが歩いていく様に、わたしは終始、眼を見開かされていた。

以前、松崎駅で汽車を降りたとき、このあたりが「松崎温泉」と呼ばれた頃の写真を飾っている小屋を覗いたことがある。そして今、目の前を行く人たちの背中を見つめていると、かつて多くの旅行客で賑わったという往時の松崎に時間移動したのではないかと思わず錯覚してしまう(*3)。往時の松崎と言えば、1938年(昭和13年)当時、松崎小学校で編まれた村内の井戸と風呂の普及状況に関するデータ(*4)を見つけた話をしていたところ、わたしの横を歩いていた「たみ」のスタッフからも、家の中に湧き出る井戸と風呂の話を住民から聞いたことがあるとの話が重なっていく。松崎駅前通りの「湯の華慈母観音」を横目にかすめながら、この町の暮らしには湯水とその湧口をめぐる話が、今も確実に息づいていることを思わされる。

旭区の「麻畑やろばた」まで歩いた一行は、ここで東郷池側へと右折する。すると、ぽかんと開けた空き地と、ここ最近に建てられたと思われる新築住宅がいくつか目に飛び込んでくる。整地された区画に沿ってクネクネと歩いていくうちに、それまで各々がバラバラに広がって歩いていた50人前後の人の群れが、自然と行列になっている。これを興味深く眺めていると、出来たばかりの人の列が早速ブツリと途切れてしまった。

実は、ここで列が途切れてしまうのには理由がある。このあたりの土地は明治時代から昭和初期にかけて段階的に埋め立てられ、そこに東郷池の南岸に沿って走る県道22号(倉吉青谷線)が開通した経緯がある(*5)。よって、松崎駅側から湖岸に歩く人の流れは、湖岸を横目に通り過ぎる車の流れと、ここで十字にぶつかってしまうことになるのだ。

人の歩く速度と、県道を走る車の速度が違いすぎて、思わず軽い眩暈に襲われてしまう。鳥取県と警察のまとめた報告を読むと、実際、ここは人身事故も含めた交通事故が多く発生している路線だという(*6)。そんな県道を無事に渡り切り、再び一列に戻った一行は、最初の「ドラマチック物件」である「小谷家」へと到着する。

 

小谷家の記憶と哲夫さんの記憶

玄関に入ったところで、家主である小谷哲夫さんが出迎えてくださった。「ようこそ、いらっしゃいました」と笑顔で語り掛けて下さる哲夫さんに、こちらもご挨拶を交わす。玄関には段ボールを切り抜いた等身大サイズの山羊がおり、「伊勢湾台風の記憶」と題された文書のコピーが一人一人に配られた(*7)。「どうぞ、もってってください。このあたりまで浸水したんです」と(写真1)、柱をさしながらお話される哲夫さんの表情は真剣そのものだ。この家に刻まれた記憶を知ってもらいたい、という気持ちが伝わってくる。最後に家の敷居を跨がせて頂いたわたしは、他の参加者よりも詳しくお話を伺う機会にめぐまれた。

 

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浸水時の状況を伝えてくださる小谷哲夫さん

伊勢湾台風が松崎を襲った1959年当時、哲夫さんは小学校5年生だった。上記の埋め立てが行われた松崎駅付近から、旭区にかけてはほぼ全域が冠水し、小谷家も床上30cmくらいまでが浸水被害に見舞われたという。このとき哲夫さんのご両親とご兄弟のみならず、近隣住民を含む計3所帯が、小谷家の2階でしばらく合同生活をしていた。だが、当時飼っていたメスの山羊(メル)だけは2階に連れて行ってやれず、梨の木箱でつくった段差の上で急を凌いでもらっていたという。また、この時の避難生活から、哲夫さんご自身も破傷風にかかってしまい、麻酔のない中で膿を絞り出された傷痕が今も残っているとのことであった。このように台風被害は小谷家だけでなく、哲夫さんご自身の身体にも刻まれている。小谷家の家屋の記憶は、哲夫さんご自身の身体の記憶でもあるのだ。

このときの経験から、小谷家の家屋はコンクリートの基礎部分を1mほどかさ上げするのみならず、家屋の壁面部分に簡易水道管を通し、2階からも水のくみ取りができるようにした。実際、これらの対策は杞憂に終わらず、その後も1987(昭和62)年、1990(平成2)年と、繰り返された台風による浸水被害の折にも役立ってきたという

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家屋のかさあげ部分と壁面に這わせた簡易水道

 

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写真裏面に「S.62.10/17 台風19号 自宅2階より南側を望む」とある。(提供:小谷哲夫さん)

他にも小谷家の中庭に咲いた五つ葉のクローバーのこと、畑から刈り取ったばかりのパンパスグラス(シロガネヨシ)の束を生け花用にこれから届けに行くことなど、小谷家と哲夫さんの「ドラマ」は続く。ひとつひとつのお話に聞き入るあまり、「しんがり」どころか、ツアーの列からすっかり切り離されたことにようやく気付いてきたわたしは、お話を一区切り終えられた哲夫さんにお礼を告げ、小谷家を後にした。

 

「これまで」と「これから」交わり合う「この町の営み」

「松崎地区にある地域住民が集う拠点やお店、家の中までもまちあるき。この町の営みを覗いてみましょう」。この日、配布されたパンフレットに記された説明に違わず、このツアーでは遠慮なく、個人の家の中、お店の中を通り抜けていった。小谷さんの「家」を後にした一行が次に出会ったのは、何かしらの「お店」であり、「拠点」であったわけだが、その中身はどんな人が、どんな建物で、どんな営みをしているかによって大きく異なっていた。その足取りは、この町の「これまで」と「これから」が交わり合う様子が垣間見える歩みだったように思える。

わたしが合流したとき、既に一行は、海鮮丼でも有名な老舗の河本魚店と湖畔公園を通り抜けた後だった。あれだけ目立つ人の列がいなくなると、住宅街はあっという間に普段の落ち着きを取り戻している。早足に追いかけるうちに、湖岸のカフェ「HAKUSEN(ハクセン)」の入口に溜まる人の列を見つけて、再び「しんがり」に戻る。そうして店の中でコーヒーに溶けていくミルクのような渦の中心にいた三宅さんを見つける。果たしてどんな物件解説をされているのだろうと思っていると、すれ違いざまに聞こえてきたのは、「おっしゃれ~」との一言だった。「おしゃれ」なのは、もちろんわたしのことではなく、淡い白色を基調としながら湖岸に佇む、このカフェの「都会チック」な雰囲気を指してのことだろう(*8)。

このとき三宅さんの後ろには東郷池の水面が拡がっていた。いや、三宅さんだけでなく、このカフェそのものが東郷池に浮かんでいるかのように思えたのだ。よく目を凝らしてみると、このカフェの建物の湖側には壁がなく、全てガラス張りのつくりとなっている。水面の輝きがいくつもの大型ガラスを通して乱反射しながら、カフェの室内をより明るく照らしている。それは猛暑のギラギラとした日差しをキラキラとした煌めきに変えてしまうような、空間のマジックを体験しているかのようだった。かつて東郷池には、龍湯島という湖中に浮かぶ入浴施設があったと言われているが(*9)、水面に浮かんだ島の中で湯につかるという体験にも、こうした奇術的な空間感覚が伴っていたのだろうか。

HAKUSENを後にした一行は、湖岸工事の現場を歩きながら、2018年に開業したばかりの朴訥(ぼくとつ)という古着屋に到着した。店舗はもともと歯科クリニックとして使われていたそうだが、病院をイメージする無機質な感じはなく、むしろ、縁側のある中庭が逆に柔らかな印象をもたらしていた。暑い日差しを和らげてくれる緑の木陰に入ると、ほっと息がこぼれる。縁側からそのまま屋内に上がりこみ廊下を抜けると、かつては待合室であったろうと思しき空間に、ずらりと並んだ衣服たちが目に飛び込んでくる。古着とは思えない衣服の清らかさと鮮やかさに、思わず手を伸ばしたくなる。すると窓口(レジカウンター)の中の店主さんが目に入り、「ありがとうございました」とご挨拶したと思いきや、またすぐに県道へ出てしまった。

あまりにも一瞬すぎる朴訥の世界観との邂逅に、ここは一体何だったのだろうかと、思わず後ろ髪を惹かれてしまう。古いものを資源としながら、そこに新しい価値を与えていく営みと言ってしまえば簡単だが、朴訥のWEBLOGには、そんな表面的な解釈ではまとめようのない開店までの思いや苦労の一端が記されていたりする(*10)。

朴訥を後にした一行は、今度は松崎駅側へと県道を渡りなおす。先ほどと同じく、ここでも列が途切れてしまう。「寿湯」という銭湯のある通路のところで、わたしを含めた「しんがり」の面々が再び合流する。その路地を通り抜けると、ツアーのスタート地点である、「たみ」から松崎駅前へ続く旧街道に戻ってきた。と思いきや、今度はすぐさま「たみ」の並ぶ町屋の裏口側へと回り込み、建物の土台がむき出しの空き家に入り込んでいく。

暗がりの中、列の先を行く人たちから口々に伝えられたのは、ここもどうやら、移住者が近々開業するお店であるとのことだった。かつて化粧品屋として親しまれた建物が、年内をめどに美容室へと生まれ変わるらしい。この店をはじめ、「たみ」が2012年に開業してからというものの、HAKUSEN2015年)や朴訥(2018年)といった移住者の店が松崎駅周辺に集まりだしているという。いつかどこかで誰かと話した、そんな話題が思い出された。

 この日、一行が最後に訪れた「汽水空港」もそうしたお店のひとつだ。汽水域である東郷池にちなんだ古書店であり、東日本大震災後に関東から移住してきたモリテツヤさんが、文字通りのDiYによって建物を一からつくりあげ、開店にこぎつけた経緯を持つ場所である(*11)。モリさんは昨年の「大発表会」の折にも、汽水空港という場所がもつ「幅と揺らぎ」について語ってくれたが(*12)、今回話してくれたのは「Whole Crisis Catalogをつくる」という取り組みのことだった(写真4)。これは20197月の参議院議員選挙を前に、町内外の老若男女が集まってお互いにとっての「困っていること」(危機=Crisis)を語り合う・伝え合うことから、等価交換・贈与経済の先までを展望しようとする試みだった(*13)。

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『Whole Crisis Catalog vol.1』の表紙

 モリさんは、一人ひとりの抱える危機を話し合った体験を通じて生まれてきた変化に加えて、これからは「アジアからやさしさを輸入したい」とも語ってくれた。「輸入」という言葉選びに、この店舗が単なる古書店ではない、「空港」でもあることへの感覚が伝わってくる。危機を嘆くばかりでなく、危機を超えるために必要な「やさしさ」を求めて、いよいよ東郷池とアジアを結ぶフライトが「就航」することになるのか。仮に来年の「大発表会」が開かれる頃には、ここはどんなふうになっているのだろう。いや、汽水空港だけでなく、どんなHAKUSENや朴訥と、そしてまだ見ぬ美容室と出会えるのだろうか。この町に移り住む人たちの営みは、「これまで」の「町の営み」と確実に交わりあっていく。それは同時に、変わりゆく「これから」の松崎の姿を、私たちに垣間見せてくれていたように思える。

 

うなぎになって「世界を横断しよう」

汽水空港で話し込むうちに、時間は12時をまわっていた。既に解散したツアーの一行は、各々に「たみ」に戻ってランチタイムを過ごしつつ、午後からの分科会準備に向かったようだった。13時からの分科会開始まではまだ間がある。「しんがり」の見守り役から解放されたわたしは、路地をふらふらと彷徨っていた。歩きながらふと考える。先ほどまでわたしの目の前に現れて、松崎の路地を埋め尽くしていたあの列は何だったのだろうと(写真5)。

 

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松崎の路地を行く「ドラマチックツアー」参加者の列

 

同時に、汽水空港の直前に訪れた「梅屋」と「佐藤会席」での体験を思い出していた。これらは「商店と自宅と作業場が一つに繋がっている」ことで「暮らす場所と働く場所がいっしょ」になった「うなぎの寝床」と呼ばれる建物としても知られている(*14)。上の写真の路地よりも細い幅の入り口をくぐると、大人一人がやっと歩けるくらいの通路が続いていて、一行の列は文字通り「うなぎ」のように押し込められていった。加えて、上を向けば晴れ渡る空を見ることのできる路地とは違い、天井と壁と床に囲われ、昼間でも暗がりになっている通路は、それ自体がまさに「寝床」のようであった。

この「寝床」を通り抜ける最中も、「物置」であったり、「居間」であったり、「キッチン(作業場)」であったり、「店舗(拠点)」であったりと、目の前に現れる空間が数メートル置きに変化を見せてくれた。HAKUSENとも違うかたちで展開する空間の奇術に、前を往く参加者たちの感嘆する様子が、「しんがり」の方にまで伝わってきた。住宅街の区画に沿って浮かびあがった人の列が、HAKUSENでコーヒーに溶ける「ミルク」のようになったときや、未来の美容室で「伝言」を受けたときに感じられたことが何だったのか。梅屋や佐藤会席を通り抜けるくらいから、それに名前と形があってもよいように思えてきた。

実は、私たちは松崎の路地を歩きながら、「うなぎ」になっていたのかもしれない。それは私たちが個と個の間のぎこちなさを残しながらも、まるで一体の生き物のように動いていくことで、町への感覚変化が得られた体験だったと言えるのではないか。例えば、梅屋と佐藤会席を続けざまに通り抜けると、ここが「家」であるとか、「お店」であるとか、「拠点」であるといった既成の言葉(概念)で予め分けることが困難なほど、これらが混然一体となった世界観が「うなぎの寝床」の生活にはあるように思えた。これは汽水空港に入る直前に、梅屋のおかみさんとお話したときに気づかされたことでもある。

おかみさんは、「昔はこの狭いところを行ったり来たりしながら、おもちゃを運んでいたんですよ」と、「寝床」から出てきたわたしに話しかけてくれた。「家」でも「店」でも「拠点」でもなく、「この狭いところ」としか言いようのない感覚、それが「うなぎの寝床」で暮らすことの空間感覚なのかもしれない。お話をしながら、昨年のツアーの折には、梅屋の2階に居た移住アーティストさんのアトリエを訪れたことを思い出す。おかみさんに尋ねたところ今その方はヨーロッパにおられて、ここにはお住まいになられていないらしい。

「仕方がないけど、さみしいわあ」と語るおかみさんだが、この文字通りのアーティスト・イン・レジデンス(A.I.R.)のドラマが教えてくれるのは、ここでは個人の所有物のように思える家屋でも、他者との共有が当たり前のように行われているという事実だ。それは他者をここに招き入れると同時に、ここから押し出してもいく、まさしく「うなぎの寝床」がつくりあげている営みと言えそうだ。

このドラマは上に記してきたような、伊勢湾台風時の小谷家での共同生活の逸話や、最近の移住者たちの世界観に見られる「この町の営み」にも通じるようでもある。ツアーの開始前に三宅さんが仰っていた「町への解像度が変わってくる」という体験とは、こうしたひとつひとつの物件にまつわるドラマを生み出す、松崎という町の営み、そのものに気づいていくということなのかもしれない。

そんなことを考えながら、ふらふらと「たみ」に戻ってきた。午後からはじまる分科会の確認を兼ねて、配布されたパンフレットを手に取ると、今年の「にんげん研究大発表会2019」のテーマが、「人間の脱分断-『あしあと』に耳を傾け、世界を横断しよう」であったことを改めて思い出す。パンフレットには次のようにある。

 

私たちが生まれる前からある町並み、お店や商品。歩くと出会うこの町に暮らす人々。これらは近いようで遠い存在であり、誰かが歩んできた「あしあと」でもあります。耳を傾ければ、小さな物語に触れることができ、無意識に分け隔ててきた時代や地域の壁を飛び超え、過去のものを現在、未来へとつなぎとめることができるでしょう。

 

このとき、「あしあと」に「耳を傾け」ながら「世界を横断」している「私たち」とは、いったい何者なのだろうか。興味深いことに、パンフレットの文章には、ここで言う「私たち」が「人間」であるという記載はない。実際にツアーを終えてみて、このテーマについて考えたとき、こうした「うなぎ」のように「人間ならざるもの」への感覚変容を経由することで見えてきた世界観に、「人間の脱分断」へのヒントが隠されていたように思える。ツアーの冒頭、わたしを含めた参加者に行程図が配られたとき、それは文字通りの「人が歩くための地図」にしか見えなかった。だけれども、今これを見ると松崎の町に放たれた「うなぎのあしあと」のようにも見えてくるから不思議である

 

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この日配布された「Matsuzaki Dramatic Tour2019」の行程図(一部加筆箇所あり)

 路地という路地にウネウネと入り込み、ヌメヌメとした粘りをもって、地図上の点と点を、人と人を、ひとつひとつのドラマと風景を、「町」という集合体として結びつけていく「うなぎになること」とは、そんな「私たち」の集合行為から生まれる想像力を示してみたメタファー(隠喩)である。だが、それはまだ一参加者としての独りよがりな解釈に過ぎない。だからこそ、わたしは他の参加者にとっての「町への解像度が変わる」体験がどんなものだったのかを、ぜひ聞いてみたいと思う。そもそも「うなぎの寝床」とは何なのか、「うなぎになる」ことで見えてきた世界観とはどういうものなのかを、「にんげん研究会」で深める機会があっても面白いかもしれない。今回の「松崎ドラマチック物件ツアー」を通じて出会った、さまざまな「あしあと」が教えてくれた、他ならない「私たち」への問いかけとして。

(報告:稲津秀樹)

 

 

1:ヘメンディンガ綾、2014「移住先は何もないところがちょうどいい!和紙ピアス

 から山カレンダーまで、鳥取に潜む良さを発信する『うかぶLLC』」https://greenz.jp/ 

2014/07/18/ukabullc/ (201991日閲覧)

2朝日新聞2016「とりどり 三宅航太郎さん」『朝日新聞デジタルhttp://www.asahi.com/ area/tottori/articles/MTW20160517320680001.html 201991日閲覧)

3東郷町1987「松崎温泉と旅館創業」『Web東郷町誌』http://www.yurihama.jp/town_ 

history2/default.htm  (201991日閲覧)

4東郷町1987「井戸と風呂」『Web東郷町誌』http://www.yurihama.jp/town_history2/

2hen/4syo/02020108.htm (201991日閲覧)

5東郷町1987「湖岸道路の新設」『Web東郷町誌』http://www.yurihama.jp/town_ history2/default.htm (201991日閲覧)

6鳥取県、作成年不明「平成29年度中交通事故発生状況(東伯郡湯梨浜町東郷校区内)」

https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1018182/tougou74.pdf  (201991日閲覧)

7:天神川流域会議編、2019『あれから60年昭和34年(1959年)台風15号天神川流域伊勢湾台風の爪痕』国土交通省倉吉河川国道事務所調査設計第一課発行.

8:とっとりずむ、2017「[HAKUSEN(ハクセン]東郷湖の景色を一望!鳥取にいること

を忘れてしまう都会チックなカフェ。-湯梨浜町https://tottorizumu.com/hakusen/2019

91日閲覧)

9東郷町1987「龍湯島のこと」『Web東郷町誌』http://www.yurihama.jp/town_history2/2hen/4syo/06010200.htm (201991日閲覧)

10:朴訥、2018「お知らせ」http://www.bokutotsu.com/2018/05/201991日閲覧)

11:池田遥、2018『「自分らしい表現」とはどこにあるのか鳥取県湯梨浜町松崎にある小さな古本屋『汽水空港を事例に』』鳥取大学地域学部地域政策学科2017年度卒業論文

12:稲津秀樹、2018「分科会『アートについてin汽水空港』報告」http://ningenkenkyuukai.hatenablog.com/entry/2018/10/03/150556201991日閲覧)

13:汽水空港、2019「『Whole Crisis Catalogをつくるvol.1』の報告」https://www.kisuikuko.com/app/Blogarticleview/index/ArticleId/12 (201991日閲覧)

14:蛇谷りえ、2018「にんげん研究大発表会2018<報告まとめ>」

http://ningenkenkyuukai.hatenablog.com/entry/2018/10/04/124108 (201991日 閲覧)