分科会「にんげんについて」in法林寺

f:id:ningenkenkyuukai:20200430091059j:plain

f:id:ningenkenkyuukai:20200430091017j:plain
「たみ」から松崎駅とは反対方向に歩いていくと、浄土真宗大谷派の寺院「法林寺」がある。本堂に入ると、周囲とはまた別種の静けさを感じることができる。入って右の襖のところには一周忌にはじまり、なかには百回忌を終えられた方までの戒名を記した和紙が並ぶ。これだけでも、このお寺が松崎の町の営みといかに深く関わってきたのかが窺える。

本分科会は、山下紗世リーダーの司会のもと、鳥取大学生3名、立教大学生6名、そして飛び入りの報告者Sさんによる計10名の発表が行われた。大枠となるテーマは「にんげんについて」である。分科会の開始前には、お寺のご住職よりお話を頂いた。ご住職のお姿にも現れている真宗大谷派の信仰についてはじまり、仏教の教えでは分科会テーマである「にんげん」を「人間」として記すこと、そして最後に「地域のお勤め」として続けておられるという、除夜の鐘のことや広島原爆の平和学習についてのお話がなされた。

ご住職による有難いお話が聞けるだけでも、何だか得した気分になってしまう。こうした場の雰囲気が引き寄せたのか、この部会には、前述のSさんに加えて、Iさんというお二人の方の一般参加があった。ご住職のお話が終わるや早々に大学生による議論が開始された。

トピックは、「暮らしのなかの宗教」「ホームレスという生き方」「狂気と創造の関係」「ソフトパワーパブリック・ディプロマシー」「セクシュアル・マイノリティ」「自分研究」「化粧」「アイドル文化とファンの行動」「アルザル(アガルタ)」という地球内空洞説、といった具合に多岐にわたっていた。

報告方法としても、事前に作成した「研究シート」をもとに口頭で関心を伝える人、思想書からの引用文を補足のレジュメとして追加配布する人、パワーポイントでいかにも「プレゼン」として伝える人、はては自作の映像作品の上映を始める人、といった具合に、一人一人のアプローチも大きく異なっていた。

このように、ひとつひとつの発表にエッジが効いていたこともあってか、オーディエンスとして参加していた住民のIさんは、学生の報告が終わるたびに「いいですか?」と質問を投げかけてくださっていた。分科会の議論の大半は、この奇特なIさんと学生たちとのやりとりで成り立っていたと言ってよい。自分の報告内容に確実なレシーブがあることは緊張もするが、とても有難いことである。他方、報告内容を見ても分かる通り、学生メンバーたちは、互いの研究に関心を持ちながらも、この部会メンバーに共通する課題を見出すことに大変苦労しているようだった。

ともすれば、そのまま学生同士で内向きに閉塞しがちな議論も、IさんとSさんが寄せてくれた話題と相対化しながら深めることができていたように思う。それが顕著に表れた場面は、お堂での4時間のあいだに、2回ほど訪れていたように思える。

ひとつは、Iさんとのやりとりから生まれた議論の展開である。結果的に長時間をかけて行われたIさんとの質疑応答は、同時に、私たちがIさんという男性の人生や価値観にふれることができた過程でもあった。例えば、Iさんが有名化粧品会社の開発職をリタイアしてから湯梨浜へ戻ってきた方であり、統合失調症を抱えるご家族のケアにもあたってこられたご経験があることなどだ。

こうした背景を持つIさんの観点と、20代前半の学生たちによる報告がぶつかることで生まれる議論は、必然的に世代的な経験の違いを大きく浮かび上がらせることになった。興味深かったのは、これが単なる世代の違いに回収されずに、全く異なるように思える両者の経験に共通する世の中の動きを浮かび上がらせようとする議論に至れたことである。

例えば、リカちゃん人形のフォルムが時代ごとに異なるという話題をきっかけに、それが化粧やファッションやアイドルであっても、はたまた宗教やホームレス、狂気やセクシュアリティ、ひいては地球それ自体への認識であっても、「にんげんの求める対象の在り方が、時代ごとに異なった様相を見せているのではないか」という議論にまで至れたことは、この分科会のとても重要な気づきであったと思う。それはこの場に持ち込まれた多様な研究関心が、世代差とともに語られていくことによって生まれた、「にんげん」の営みそのものに対する立派な仮説であるだろう。

もうひとつは、当日、飛び入り参加されたSさんによる「自分にとって本当にちかい言葉で会話すること」という報告が伝えてくれた、言葉選びへの態度である。Sさんは「20代半ばくらいまで、なるべく自分の本音や意見を言わず、まわりの人が求めているように感じることを勝手にくみとって選択して行動していたら、ずいぶん混乱した気持ちになった」という。そこから「自分自身に無理がなく、快適である為に自分の言葉で話そう」と決意したという。具体的には、親しい友人や旅先で会った人に手紙を書くことを日課にしたり、二人きりで話す機会を設け、「その場で交わす言葉がなるべく正直であるように心がけた」という。その結果、Sさんの至った考察が、次のような「嘘をつく」ことへの考え方に裏打ちされた言葉からの生活観や倫理観であったことは、とても興味深いものだった。

Sさん曰く、「『嘘をつく』ことは、自分自身にストレスとして大きな負荷をかける大きな要因となる」。それは見えないところへ蓄積していき、自分自身を蝕んでいく。だからこそ「自分の心に近い言葉を探して、それを発すること」「自分が本当にはどうしたいのか問い続けながら生活することが重要」だと言う。なぜなら、それが「自分自身にとって、より快適な環境に近づくことにつながっている」からである。

このように「言葉を誠実に選んだら、生き方にもモヤモヤが少なくなっていった」と語るSさんは、ひとつひとつの言葉選びが、人間の生き方、ひいては生活や環境とも連環していると実感をもって伝えてくれた。そして、自分の言葉選びを大切にすることで、「他者と自分の意見は違っていることはとても自然だと気づけた」と言うように、Sさんの気づきは、他者の言葉、ひいては他者の意見の自由に対する倫理観をも伝えてくれたように思える。

こうしたIさんとSさんの議論に触発されながら、互いの興味関心について語り合った学生たちが翌日の「井戸端会議」に向けて考え出したのが、「私とまわりの〇〇〇」というテーマだった。ここで言う「〇〇〇」とは何だろうか。これについて報告者は直接、学生たちにその理由を尋ねたわけではない。

けれども、これらの空白の円には、Iさんとの対話で気づかされた「私」の「まわり」で常に移ろい変わる対象への認識態度や、自分自身の言葉と他者の言葉をともに大切にしたいという、Sさんから教わった生活観・倫理観が確実に見て取ることができる。

翌日、「おでかけ」チームに割り当てられた私は、「井戸端会議」終了間際に法林寺に戻ることになった。上のテーマが記された真っ白な模造紙に現れていたのは、「〇〇〇」という空白の環を通じて浮かび上がってきた無数の言葉たちであり、この場にやって来ては通り過ぎて行った「にんげん」たちの世界に対する認識と関心の多様性そのものであったように思える(写真)。

はたして次回の大会では、どのような「にんげん」像が浮かび上がってくるのだろうか。来るべき2020年の「にんげん研究大発表会」での議論にも大いに期待したい。

(報告:稲津秀樹)

 

f:id:ningenkenkyuukai:20200429134202j:plain

法林寺分科会で語られた「あしあと」