分科会「アートについてin 汽水空港」報告

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 あえて定義からはじめてみたい。「アート(英語:Art)とは、芸術・美術など間接的に社会に影響を与え得るものである」。これはグーグルで「アート」という言葉を検索すると出てくるWikipediaの定義である(強調は引用者)。わたしはアートの専門家でもなければ、この定義でいうところの「芸術・美術」を中心とする実践者でもない。しかし、分科会の議論を終えた直後、たまたまこれを読んだ時に「なんてつまらない定義なのだろう」という違和感を覚えたのだった。以下、この瞬間に感じられた「アート」の定義をめぐるギャップについて述べることで、本分科会の内容報告に代えることにしたい。

わたしの参加した分科会は、7月末にリニューアル・オープンしたばかりの古書店「汽水空港」で行われた。テーマはとてもシンプルで、ただ一言「アートについて」と題されていた。具体的にはパウル・クレーの作品分析、美術展のレジャースポット化、音楽を使ったアウトリーチ活動、震災仮設住宅でのアート実践といった、アートという言葉から想起されやすいトピックや近年の動向のみならず、ポルノグラフィ、ゲーム音楽、ファッション、防災無線等から流れるチャイムといった身近な文化の現代的な変化も話題となった。

参加者は(ほぼ)初対面同士ということもあり、全体を通して最後まで「ぎこちない」議論であったことは否定できない。しかし、迷いや葛藤も含めた自分自身の関心を言葉にして他者に伝えようとする意志と、それを受け止めようとする姿勢がその場には徐々に立ち現れていったように思える。議論の合間には汽水空港店主の森哲也さんがDIYで店舗を(再)オープンするまでの「四苦八苦」、そして書店を開く上での「幅と揺らぎ」の重要性について語って下さった場面もあった。それにより、汽水湖東郷池)を目の前に再び立ち現れたこの「空港」のみならず、真新しい本棚に並べられた古書たちから伝えられる無言の、しかし無数のメッセージも参加者に感じられる場所になっていたに違いない。

この分科会は、こうした場/場面/場所の力が確かに感じられるものだった。だからだろうか。報告者たちが「アート」をめぐって口にしていたのは、冒頭に引用した「間接的」とか(自分自身と切り離され遠く感じられる意味での)「社会」といった言葉を用いた定義では一切なかった。それは例えば「パッション」(情動)の感じられる「自己表現の場」であったり、それを他者と「共有するもの」であるという。これは「自己」が関与する意味で何よりも「直接的」であり、かつ「共有する」営みを伴うという意味で、「社会」というよりも「共同体」や「共同性」という次元に限りなく接近している定義のように思える。

ここには冒頭のWikipediaの定義を反転させたような地点に、参加者の観点が置かれていることが窺えるだろう。もちろん、それもひとつにまとめられるほど、議論内容が明確になっていたわけではない。だが、限られた時間とはいえ、参加者間で「アートとは、自分自身を『出力(アウトプット)』する方法をtryする場所である」、いうオリジナルな定義の萌芽にまで議論が至れたことの意味は極めて大きいとわたしには思われる。なぜなら、この定義は、この分科会そのものが何だったのかという場(場面/場所)の理解にも結び付くのみならず、近代を通じて「芸術・美術など」として専門化され、自らの手から遠くなった「アート」を、ふたたび自分自身(=わたし)の位置から直接的に捉えなおし、他者ともに実践しなおす技法の萌芽としても考えられるからである。だが、当日に議論できなかったことの課題も多くあるだろう。それは報告者の卒業研究や来年の?「にんげん研究大発表会」での議論に期待したい。

 

レポート:稲津秀樹

鳥取大学地域学部 稲津秀樹ゼミ
新任教員なので、ゼミも1年目です。卒業生はまだいないので、ゼミ生とテーマやフィールドを耕している状態です。担当者自身は昨年、研究仲間と『社会的分断を越境する―他者と出会いなおす想像力』という本を出しました(青弓社2017年)。構造化された社会問題を生きる当事者/他者の「しんどさ」と向き合い、それでも共に生きようとする人びとの意志や実践、表現や想像力を学び続けたいと思っています。