「地域と文化のためのメディアを考える連続講座」の第二回レポート

1月21日。午後4時から午後6時半ごろにかけて、鳥取市瓦町にある「ことめや」でにんげん研究会がありました。今回は今年度にんげん研究会のテーマになっている「地域社会の記憶と文化のためのメディア・プロジェクト」の一環で、「地域と文化のためのメディアを考える連続講座」の第二回として催されました。「地域社会の記憶と文化のためのメディア・プロジェクト」とは「観る」「言葉にする」「聞く」という要素をベースとして、メディアを考え直してみようというプロジェクトです。今回はその中の「言葉にする」ということにスポットを当てたお話でした。

今回はゲストに哲学者の鞍田崇さんをお招きしてトークイベントが行われました。当日は約30名ほどの参加者がありました。前回は学生の参加者が多かったですが、今回は一般の方にも多くお越しいただきました。

さて、鞍田さんのお話では主に「民藝」という言葉についてスポットを当てておられました。「民藝」とはもともとはなかった言葉であり、20世紀初頭に柳宗悦によって作られた言葉です。この「民藝」という言葉が誕生したおかげで、以前から存在していた伝統的な生活用品に、「美」をはじめとする新たな価値が見いだされ、さらにはそれらの「物」と「人」をつなぐきっかけにもなりました。つまりこの「民藝」という一単語が、埋もれていた物の価値を世間に広め、人々がそれを中心に集まれる広場を作ったのです。

しかし鞍田さんはそのことに少しの懸念を示しておられました。たしかに「美しい伝統的な生活用品」という”見えていなかったもの”を”見えるようにした”のは「民藝」という言葉です。しかし「民藝品だから価値がある」とか、「古いものだからきっと素晴らしいものなんだろうね」という風に、言葉の魔力によって人々がそれぞれのものと向き合えなくなる状態、つまり「見えたものを見えなくする」のも言葉だということなのです。

自分はこの話を聞いたとき、ある言葉を思い出しました。

 

「名前ってなに?

バラと呼んでいる花を

別の名前にしてみても美しい香りはそのまま」

 

ロミオとジュリエットシェイクスピア(小田島雄志訳)

名前、つまり言葉とは、目の前に当たり前のように存在しているものを意識するきっかけにしか過ぎません。(そのきっかけを生むこと自体は誰でもできるような簡単なことではないと思いますが…)そのきっかけを経て、目の前にあるものと自分の目で向き合うことこそ本質なのです。

 言葉は我々にたくさんのものを見るきっかけをくれますが、それをどう判断するか、どう捉えるかは自分の目で決めることであり、自らを言葉の海の中に置きながらも、その中で流されることなく自立していることが大切だと思いました。

(鳥取大学 佐々木ゼミ4年 村上大樹)