「地域と文化のためのメディアを考える連続講座」の第一回レポート

 12月13日。午後7時から午後10時前にかけて、鳥取市瓦町にある「ことめや」でにんげん研究会がありました。今回は普段の研究会ではなく、ゲストに映像人類学者の川瀬慈さんをお招きしてトークイベントが行われました。当日は急遽セッティングを変更するほど多くの方にお集まりいただきました。川瀬さんは約30名ほどの参加者の方々が、広くはない座敷にぎゅうぎゅうに身を寄せ合ってトークイベントを聞いている様子を気に入っておられるようでした(笑)

 さて今回の企画は、今年度にんげん研究会のテーマになっている「地域社会の記憶と文化のためのメディア・プロジェクト」の一環で、「地域と文化のためのメディアを考える連続講座」の第一回として催されました。「地域社会の記憶と文化のためのメディア・プロジェクト」とは「観る」「言葉にする」「聞く」という要素をベースとして、メディアを考え直してみようというプロジェクトです。今回はその中の「観る」ということにスポットを当てたお話でした。

 川瀬さんは映像人類学者として、主にエチオピアを中心に「民族史映画」を制作しておられます。この映像人類学は、特定の場所に居座って現地の中に溶け込みながら民族史を記録するという人類学とは少し違います。現地の風景を人類学的な観点に注目しながら、かつありのままの姿を映像として記録するのが映像人類学なのです。僕は人類学的なトピックについては知識がないので正直その点に関しては理解できませんでしたが、「ありのままの姿」という点については確かに映像にあらわれていると思いました。自分はその場にいなかったのに、映像を見ている最中はあたかも自分も現地にいて、その空間を目の当たりにしているかのように感じたんです。これはもしかしたら実際に見て記録した川瀬さんと場を共有していたせいもあるかもしれません。

しかしこの「人類学的な観点」と「ありのままの姿」の間には、記録と表現との葛藤があるそうです。川瀬さんはその記録と表現との間で思い悩むことが、それが形になって人の目に触れた時の成熟につながるとおっしゃっておられました。

 この「記録を形として残し、人の目に触れたときにあらわれる成熟」は僕らが普段にんげん研究会で取り組んでいるメディアプロジェクトでも意識しなくてはいけない感覚だと思います。記録は日記ではないので、必ずそれを見る第三者がいます。僕はその第三者に、いかに「自分も経験したような錯覚」を与えるかが重要だと思いました。記録を見て「へー、そうなんだ」で終わることなく、小さなことでもその人の中で変化が起きるきっかけになってくれたらいいなと思いました。そのためには単なる事実の羅列としての記録ではなく、そこに少しずつ自分を溶け込ませていくという、簡単なようで難しい編集作業が大切だと思います。

 さて1月21日には「地域と文化のためのメディアを考える連続講座」の第二回が鳥取市瓦町の「ことめや」にて催されます。第二回は哲学者の鞍田崇さんをお招きして、「言葉」というメディアの創造についてお話しいただきます。興味がある方は是非「ことめや」にお越しください。

(鳥取大学 佐々木ゼミ4年 村上大樹)