めでぃあ連続講座1回目レポート

 今回の家中 茂先生のトークは、『「聞き書き」などによって得られる文字化されていない生活情報を、いかにして現在に生かすことができるか?』という観点からメディアを考えた講座であった。

  聞き書きを行うことで普段自分たちの触れることのない生活スタイルや、オープンな歴史にならない「個人史」を聞き、文字起こしを行い、そしてそれを編集し 一つの文章を作る。その過程で、年表には載らない個人の生活の中の「輝き」が見つかり、従来記録に残らないものを残すことで新たな世界が生まれると家中先 生は述べた。この「輝き」を見出すことこそ個人の生きる糧を見出すこととなるのではないだろうか、と私は感じた。
 次に、家中先生は生活構造論と いうものを紹介した。これは社会構造分析のように「大きな枠を外から見る」のではなく、生活構造分析のように「大きな枠を、枠の中の個人の目線で見る」も のであり、このような考えが「その人らしく暮らすこと」を可能にすると家中先生は述べた。この話の中で「暮らしの基礎は身体や脳に刻まれている」という話 が出てきた。一見軽視されがちなことではあるが、小さな癖や習慣はその人の生きた証であり、それを大切な情報として扱うことは「その個人を大切にするこ と」なのではないかと私は考えた。このような文字化されない(=ナラティブ)情報を共有するのがコミュニティーである。
 家中先生は「情報とは生 命にとって意味のあるもの」と述べた。ナラティブな情報というのはそのコミュニティーでその人が「生きる」ために必要なものであり、それこそ個人の「輝 き」であると私は考えた。しかし、このナラティブな情報というのは物の移動のように変化せず他人に渡るものではなく、あなたと私の間で変化してしまう。こ れこそ「世界が生まれる」ということだと感じた。
 こういった話を聞いていくうちに、インターネットによって世界が拡張した現代で個人の「輝き」 を見つけていくことはとても重要なことなのではないだろうかと考えた。インターネットの世界は、地域のような対面で生まれるコミュニティーより「自分の存 在の必要性」が薄い傾向にあるように私は感じる。その傾向の中で「わたしらしさ」を見出すためには、従来記録には残らす目に見えなかった情報を記録してい くことが必要なのではないだろうか、と思った。
 私はいままで、社会という大きな枠組みの中にただなんとなく所属させられているような気がしてい た。しかし、「聞き書きによって書き起こされたものは、話し手に「ささえ」になる」ということを聞いて、いままで自分の生み出した世界の数々を無視してい たことに気づいたような気がした。
 「私はわたしとして毎日生活している」それを再認識するために今日のメディアは必要であり、現代社会で生きるためにメディアの活動は、取り扱う情報や記録の方法などにおいて様々な広がりを見せていく必要があるのではないだろうか。

(レポート 門脇