2016年10月のレポート

 今回のにんけんでは、『無縁社会のゆくえ』の内容を踏まえつつ、現代社会が抱える「問題」というよりかは、更に自分たち学生にとって切実な「悩み」を共有し、人との心地よい「つながり方」について言葉を交わした。
 今回の輪読を通して見えてきたのは、自分が心地よいと思える縁やつながりを複数個所に持っておくことが、生きやすさに結び付くのではないかということである。

 本の中にも書かれていたように、現代社会は確実に個人主義が浸透している。それによって社会の無縁化が進み、人は一人でいる時間が昔に比べて圧倒的に長くなった。兄弟の人数は減り、祖父母とは同居しなくなった。高校を卒業すると同時に私たちのように一人暮らしを始める若者は一般的になっている。同じアパートの住人とは挨拶を交わすことすらない。
 一方で、私たちは適度に他者と距離を保って、心地よいつながり方を手に入れているのではないかという発言も出た。そもそも個人化の背景には、濃すぎる「縁」から逃れたいという先人の願望が感じられる。「他人と深くかかわるのは面倒だけど、いつも一人で孤独でいるのは嫌」というのは自分勝手で傲慢なような気もするが、ごく自然なことなのかもしれない。
 自分たちの周りにあるつながりについて議論しているうちに、私たちは主に2つの場所に縁をもっていることがわかってきた。
 1つは大学入学とともに手に入れた縁。親元を離れ一人暮らしをしている人は、実家で生活していたころに比べると圧倒的な自由を手に入れることになる。好きなときに友達と遊び、好きな時間に帰宅する。しかし、一人暮らしは個人主義の最たるもののひとつで、自由である一方孤独がつきまとう。「玄関を出たらそこから『社会』というように感じる」という意見が出たように、私たちはどこか宙ぶらりんな感覚に襲われる。
 2つ目は生まれ育った地元で育んできた縁。この縁の存在は非常に大きい。地元に帰って実家に帰り、家族や友達に会うことで、「自分はひとりじゃない」と再確認することができる。毎日家族に干渉され、近所付き合いに気疲れするのはごめんだが、たまに帰ると家族や古くからの友達との確かなつながりを感じ、一人暮らし生活とのバランスを保っているような感覚だ。

 今回の輪読を通して、人は常に他者とのつながり方を模索していることが改めてわかった。人間関係って面倒臭いけど、誰かとつながっていたいという感覚は、怠惰でもなければ傲慢でもない。しかし、人との関係や縁というものは自らが紡いでいかなければならないものだ。蛇谷さんがおっしゃっていたように、「無縁化した社会」の流れに飲まれないように、ささやかでも逆らっていくことが重要だ。田舎特有の濃い地縁や、インターネット上のゆるい関係性など、自分にとって生きやすいようにつながり方を使い分けていくことが、私たちの求める「心地よい他者とのつながり方」なのではないだろうか。

※以下、樽本さんがまとめてくださった全体の内容です。
 とてもわかりやすいので一緒に送らせていただきます。

【講について】
インドネシアにも日本の講のようなアリサンという習慣があり、それは参加者同士の間の信頼と宗教的な道徳心で現代まで維持されている。

・日本の講って、信頼できない人を排除し信頼できる人同士でつくる排他的な組織とも言えるんじゃないのか。
では逆に、排除されてしまうような人でも参加できるような講や集団のあり方ってどんなんだろう。

【地縁について】
・新しい土地に住むとき不動産屋を介して物件を探し借りるのか、身近なつてを通じて紹介してもらうのかでその人の地域生活のあり方が異なる。学生は多くの場合、不動産屋を通じてアパートを探すが、まったく知らない場所に放り込まれるだけで回りにどんな人が住んでいるのかも分からない。
むしろ「近所に挨拶回りとかしなくていいから」とあらかじめ断っておく大家さんもいる。
(社会と隔絶された環境で4年間を過ごす。そこに地縁は全く育まれることはない。4年経ったらどこかに行ってしまうから、その前提があるから、互いに縁をつないでいこうという感覚は生まれない。いつからこういう感覚が生まれたのだろう?)

・家庭内の情報もみんなに筒抜けで、地域の行事には家族ぐるみで参加しなければならない田舎を出て、プライベートが守られ、一人でも生きていける空間を得た。その変わり、卒業したりするといっきにまわりの環境が変わり、ほんとに一人になる。

・「アパートを出た瞬間に、はい社会に出た」っていう感覚がある。

・昔は家の「中(家庭内)」と「外(地域)」が繋がり流動的だったが、現在は「中」と「外」が分断されている。かつては地域での催しがそれぞれの家族生活の一部だったし、今でも町内会を始め自治会に入っていれば家庭内でも地域の行事に参加したり、地域のことについて話したりする。つまり家の中と外が互いに影響しあっている。しかし、学生街のような人の入れ替わりの激しい地域では特に、地縁のようなものは育まれにくいしそもそも育まれないようにできているのではないか。


・学校や会社などある組織の中に所属しているうちはまだ日常的に人とのつながりを持てる。しかし、学校を卒業、会社を辞めた後はいっきに環境が変わる。人と会うこと、話すことが当たり前ではなくなる。もっといえば、学校にも会社にももともと所属していない人、たとえばアーティストなど「正常じゃないコース」で生きる人は、属するコミュニティを自ら作るか探すしかない。

・この本が言っている「縁」とは、あらゆる縁の中でも「地縁」の話。離れても繋がれるというのがネットの利点だが、いざというときに助けたい人、助けてもらいたい人が遠くに住んでいてどうにもならないということが露見したのが東日本大震災じゃないか。この本が書かれた背景には、ネットが代替できない、物理的な距離の近さを基盤にした地縁の重要性・必要性の再認識があったんじゃないか。

【自治組織について】
・地域の自治会が、清掃活動や地域行事といった面倒なことと、みんなが居心地の良さや楽しさを感じられるようなつながりづくりとを両立されられる場にするにはどうしたらいいだろう。

・松崎は1つになろうとしない。地域の清掃は自治会がやるがそれとは別に、たとえばワイワイや東郷愛好会は、それぞれの目的を明確に、自分達がやりたいからやっている。

・維持するために強制されない、誰かが責任に押し潰されないことが大切

・所属する場を複数持つ。1.家庭、2.地域、3.会社や学校、4.ネットや趣味といった帰属先をたくさん持つことでさみしさから解放、しがらみからも解放、つながりを使い分けより、生きやすくなる。


ざっくりですがこのような話が出ました。いろんな人がそれぞれのこれまでの生活を振り返りながら話をしていたように思います。
卒業を控える学生にとってはこの先どう生きていきたいか、どういきていったらいいのかのヒントになるような会になりました。