にんげん研究大発表会2017 レポート
2017年8月5日と6日に、ゲストハウス「たみ」で「にんげん研究大発表会2017」が開催された。主な参加者は鳥取大学地域学部と立教大学社会学部の学生と教員、また松崎周辺など鳥取に在住されている方々など様々で、必然的にその発表内容も多岐に及んだ。
自分を始めとする鳥取大学からの学生参加者は主に地域文化学科芸術文化コース所属である。そのため普段芸術と地域のつながりを考えている自分たちと、社会学部の学生とは興味を向ける対象が異なるのではないかと思っていた。社会学のイメージとして、政治や経済など物質的な幸福を実現する手だてについて考えながら、現代社会がどうあるべきかということを考える学問、というものがあったのだ。しかし発表を聞いた限りでは「伝統文化と地域コミュニティ」であったり、「新国立劇場バレエ団にみる日本の文化政策について」など社会学部の学生の中にも芸術という観点から社会にアプローチしている方もかなり多くいて、発表に用いられていた「他地域連携型」「コミュニティーづくり」「アートを用いたまちづくり」といったテーマから自分は「いかに人々の価値観が変わってきているか」ということを強く感じた。単なるお金を使ってものを作って心を満たすという考え方から、人とのつながりを意識的に重視する。つまり「金やモノで満たされれば幸福」という時代から、「物質的ではない精神的な満足感や達成感を得ることこそ幸福」という時代に変わりつつあるということだ。
この発表会にもそういった意味があったのではないだろうか。参加者たちはこの大発表会を通して日頃関わることのない人々と関わり、意見交換をしながら自らを見つめ直すことが出来た。自分の同期の学生は今回の大発表会を通して芸術が社会や地域にとってどういった役割を果たせるのかを再度考え直そうと思ったそうだ。そういった転機をはじめ、大発表会を経て得られた知見や経験、つながりはいくら金を払っても、モノを手に入れても得られることのないものだと思う。哲学という学問を説明するにあたって、「哲学とは考えることを愛する学問」というような表現をされる。今回の大発表会では参加者たちが他人の興味や研究について話を聞き、それを自分の中で考えた上でアウトプットし、それをまた周囲が吸収した。そうして考察とアウトプットの反復が生まれていたという意味では、にんげん研究大発表会もまさにそのように言い表すことが出来るだろう。「にんげん研究大発表会2017」は、知ることや考えることを愛する人々が集まった素晴らしい発表会だった。
「にんげん研究大発表会2017」開催!
大発表会メッセージ
にんげん研究会では、「地域社会の中で生活する一人一人のにんげんが、どのような活動を行い、いかにして仲間を作り、環境を築いていくのか。」ものづくりと地域学の視点で学生たちと研究してきました。本発表会では、研究会関係者だけでなく、県外の大学生、研究者や実践者、一般の方々も集まり、それぞれ4つのセッションに分けて発表いたします。
また、会場となる松崎地区の特性を生かしたミニFMラジオ、まちあるき、スポーツ、食事会などを開催し、聴くだけでなく五感を使った交流プログラムも用意しています。
自身の身体で得た知性とも言える「研究」をオープンにすることで、わたしたち「にんげん」のあり方を見つめ直す機会となることを期待します。それぞれが共に、改めて「にんげん」として歩み出すために、さまざまな立場の人々が集い、語らう濃厚な2日間。是非とも、ご参加ください!
あなたの「研究」を発表してみませんか?発表者大募集~!
誰にも言わずに密かに行ってきたあなたの「研究」を発表しませんか? 国籍・学生、プロ・アマ不問、初心者大歓迎!生活の中で、あなたが日々研究していることを発表してください!
企画概要
日時:8月5日(土)13:00〜22:00、8月6日(日)10:00~18:00
参加費:1日1,500円(二日間通しは2,000円)※学生・町内の方は無料
定員:20名(要予約/定員に達していない場合は当日受付可)
※無料駐車場があります。会場周辺には、「たみ」の他にも宿泊施設があります。
申込み・問合せ(担当:ジャタニ):
ningenkenkyuukai*gmail.com←*を@に変換してください。
0858-41-2026(たみ兼用)
参加申込み・タイムスケジュールなどはこちら
続きを読む2017年6月22日 「にんげん研究会」のレポート
6月22日に開かれた「にんげん研究会(以下「にん研」)」では前半に鳥取大学の川井田祥子氏から「障害者と芸術表現」といったテーマでお話していただき、後半は「地域の記憶を記録するメディア」をテーマにオープンミーティングを実施し、各自で取材を行うための取材対象を話し合いました。
今回は、前半と後半に分けて詳しい内容をレポートします。
「障害者と芸術表現」のお話
昨今、世界中、また日本中で『創造都市(市民一人ひとりが創造的に働き、暮らし、活動する都市)』、すなわちどんな状況にある人でも「ここで生きていていい」と思える町づくりの一環として、経済的のみならず文化的な豊かさを得られることを目的とする団体やプロジェクトが活発に動いているそうです。その事例をお話くださいました。
例えば、アトリエ「インカーブ」では、日本における障害者のアートが認められない雰囲気や、障害者が置かれる環境、また健常者からの見られ方への疑問から日本の障害者たちによるアート作品の展覧会をニューヨークで開き、彼らがアーティストとして正当な評価を得られるきっかけをつくりました。日本での障害者に対する偏見を跳ねのけ、「障害者でも健常者と同じ土俵で頂点に立てる」ということを証明できたのです。
またアトリエ「コーナス」では日本中の福祉作業所の後に続いて、作業所にアートを取り入れる決断をしました。その結果、制限と制約まみれだった障害者たちは「創造」という自由を得て、これまで周囲の目に映ることのなかった生き生きとした表情を見せるようになりました。現在ではアトリエ「コーナス」で生まれたアート作品がファッションとコラボするなど、他分野への広がりも見せているそうです。
このようにアートと障害者を結び、彼らに生きがいを感じてもらおうとする団体やプロジェクトは日本のみならず世界中で活動しています。川井田氏は、今よりさらに多くの障害者たちが芸術に触れられるような環境づくりや、福祉のみならず他分野と協働していくプロセスが創造都市に繋がるのではないかと締めくくっておられました。
自分の意見としては、アトリエ「インカーブ」や「コーナス」のような団体が、単なる“珍しい例”というだけで終わらずに、今後も継続的に活動し、いい意味で“当たり前”になっていけばいいと思いました。
「地域の記憶を記録するメディア」のお話
現在、「にん研」では「地域の記憶を記録するメディア」をテーマに、地域の人々に取材を行い、その人たちが持つ「モノ」との関係を探り、「地域の記憶」を呼び起こし、それを様々なメディアで発信しようというプロジェクトを企画・進行中です。
取材対象の条件として「有名じゃない人」「歴史的な出来事や大きな出来事に関わっていない人」「鳥取在住で、今も生きている人」「何かを個人的に集め続けている人」などが設けられていますが、自分の取材対象(後述)からも分かるように、「にん研」メンバーが面白いと判断すればその限りではないようでした。
出席者の中からは、「ワケありの着物が沢山集まる『たみ』の近所の呉服屋」や、「UFOキャッチャーに励み、ガラクタのようにも見える景品を訪れる人に配ってくれる公民館のおじいさん」や、「メーカーサポートが終了しているはずのWindowsXPを他の人からも集めて一台一台丁寧に使い続けているおじさん」など、興味深い取材対象候補が数々挙げられました。
自分は周囲に「何かを集め続けている人」がいなかったので、逆に「もともとは物を溜めこむ性格だったのに、いつの間にか断捨離に目覚めてしまっていた父」に取材をすることにしました。今まで深く考えずに父の“断捨離活動”通称「ダン活」(今考えた)を手伝ってきたので、これをいい機会に何が父を変えてしまったのかを聞き出したいと思います。(笑)
次回のお知らせ
次回の「にんげん研究会」(7月20日)では、参加者のみなさんが、今回の話し合いを踏まえ、取材をしてきます。その結果を報告することになっているので、ご興味のある方はぜひ「たみ」にお越しください。
めでぃあ連続講座1回目レポート
今回の家中 茂先生のトークは、『「聞き書き」などによって得られる文字化されていない生活情報を、いかにして現在に生かすことができるか?』という観点からメディアを考えた講座であった。
聞き書きを行うことで普段自分たちの触れることのない生活スタイルや、オープンな歴史にならない「個人史」を聞き、文字起こしを行い、そしてそれを編集し 一つの文章を作る。その過程で、年表には載らない個人の生活の中の「輝き」が見つかり、従来記録に残らないものを残すことで新たな世界が生まれると家中先 生は述べた。この「輝き」を見出すことこそ個人の生きる糧を見出すこととなるのではないだろうか、と私は感じた。
次に、家中先生は生活構造論と いうものを紹介した。これは社会構造分析のように「大きな枠を外から見る」のではなく、生活構造分析のように「大きな枠を、枠の中の個人の目線で見る」も のであり、このような考えが「その人らしく暮らすこと」を可能にすると家中先生は述べた。この話の中で「暮らしの基礎は身体や脳に刻まれている」という話 が出てきた。一見軽視されがちなことではあるが、小さな癖や習慣はその人の生きた証であり、それを大切な情報として扱うことは「その個人を大切にするこ と」なのではないかと私は考えた。このような文字化されない(=ナラティブ)情報を共有するのがコミュニティーである。
家中先生は「情報とは生 命にとって意味のあるもの」と述べた。ナラティブな情報というのはそのコミュニティーでその人が「生きる」ために必要なものであり、それこそ個人の「輝 き」であると私は考えた。しかし、このナラティブな情報というのは物の移動のように変化せず他人に渡るものではなく、あなたと私の間で変化してしまう。こ れこそ「世界が生まれる」ということだと感じた。
こういった話を聞いていくうちに、インターネットによって世界が拡張した現代で個人の「輝き」 を見つけていくことはとても重要なことなのではないだろうかと考えた。インターネットの世界は、地域のような対面で生まれるコミュニティーより「自分の存 在の必要性」が薄い傾向にあるように私は感じる。その傾向の中で「わたしらしさ」を見出すためには、従来記録には残らす目に見えなかった情報を記録してい くことが必要なのではないだろうか、と思った。
私はいままで、社会という大きな枠組みの中にただなんとなく所属させられているような気がしてい た。しかし、「聞き書きによって書き起こされたものは、話し手に「ささえ」になる」ということを聞いて、いままで自分の生み出した世界の数々を無視してい たことに気づいたような気がした。
「私はわたしとして毎日生活している」それを再認識するために今日のメディアは必要であり、現代社会で生きるためにメディアの活動は、取り扱う情報や記録の方法などにおいて様々な広がりを見せていく必要があるのではないだろうか。
(レポート 門脇 )
7月のにんけんレポート
7月28日(木)「焼き物を通して知る沖縄」レポート
ゲスト|五島朋子 聞き手|蛇谷りえ
7月28日のにんけんでは、鳥取大学芸術文化コースの五島朋子先生によるトーク「焼き物を通して知る沖縄」を行いました。沖縄独自の焼き物の発展や特徴について、焼き物をとりまく人や環境の変化について話を伺う中で見えてきたのは、焼き物と日本における「近代化」との関係でした。
今回は五島先生秘蔵の映像も上映し、器や水差しなどの焼き物が製作される様子を見ながら、沖縄の焼き物がどのように作られ、どのような特徴があるかを学びました。中でも印象的だったのは「登り窯」と呼ばれる巨大な窯の話。成形され、絵付けされた作品がぎっしりと並べられる登り窯は、まるで龍のように長く大きな姿。映像を見ただけで、窯の中に作品を並べるだけでも大変だと分かります。
五島先生のお話の中で面白かったのは、沖縄の登り窯で特徴的な複数の作家が共同で窯を使う「共同窯」の話。沖縄県の中部、読谷村(よみたんそん)という所には4人の陶工が共同で開いた登り窯があります。そこでは、年に5回、火入れやその後焼きあがるまでの3日3晩を4つの工房が共同で番をしているそうです。その他にも作品の共同ギャラリーがあったり、地域で市が開催されたりしているようで、登り窯を中心としたコミュニティの形成のありようが興味深かったです。
そもそもこの登り窯で作られる焼き物とは、高級品ではなくいわゆる「民芸品」。民芸品とは、日常生活で使う食器や、農具、工具など安価で大量に生産されるものです。限られたコストの中で地元の土や植物などの資源を使い、染色、絵付けをしたりと独自に工夫、発達してきた中で、「民衆の美術」としてその価値が見出されたのが民芸品でした。窯の中で焼かれるお皿の底には、たいてい丸い柄が描かれているのですが、それは一度に大量の皿を焼くために何枚も重ねて積み置くため、上のお皿を置いた後だという話には驚きました。あくまで、できるだけ大量に作ることを念頭に作られてきたのが民芸品なのです。グローバル化や市場経済の発達により淘汰されていった民芸品ですが、4つの窯元が共同で使い、支えている沖縄の共同窯の在り方はこの時代を生き抜く上で必然のことのように思いました。
沖縄の焼き物や登り窯について、そして民芸の衰退・発達についてお話を伺った後、どこからか「近代化」というキーワードが出ました。市場経済活動によって、より安く、便利なものが普及した結果、その土地にもともと育まれていた文化が喪失することが、日本における近代化の形ではなかったかと。この近代化という大きな波を受け、改めて掬い上げられ、日の目を見るようになった存在が民芸ではないかという意見も出たり、一方で民芸品が高級品になり地元の人の生活からは縁遠くなってしまった民芸ブームのような流れは果たして良いのだろうかという意見も出ました。「民芸」には特定の地域に根差した「根っこ」の部分があるというイメージから、市場経済によって切り離されて取引されていることに葛藤、困惑する人もあったようです。けれど、ディスカッションをするうちに、沖縄と九州、沖縄と鳥取のように、地域間で作家同士の交流がなされている話も出てきました。改めて、民芸の「根っこ」は地域を越えて交わる、複雑で奥深いものだと発見できたのではないかと思います。
今回は、VHSビデオとパソコンのスライドを見せるプロジェクター2台使いで、たみの電力を大量に消費してしまいましたが、やはり映像の力はすごくて、登り窯と一言に言っただけでは想像もできないくらいのスケールや、独特の作業を感じることができました。主催者ふくめ、20名ほどの参加者でしたが、飛び入りで民芸に詳しい料理研究家の方も参加してくださり、知り合いの民芸作家さんとのエピソードをお話してくれたりとわきあいあいのトークとなりました。参加して下さった方々ありがとうございました。
(レポート 樽本)
11月のにんけんレポート
11月24日(木)のにんけんは、限界芸術論の輪読でした。
鶴見俊輔氏の限界芸術論についてみんなと意見を共有して行く過程
(これはにんけん内だけのことかもしれませんが、、)
学生は限界芸術と呼ばれる「モノ」
しかし、限界芸術とは「
そういった前提条件を共有した中で、
その結果、もしかしたら「携帯・スマートフォンをいじる」
みなさんもやりません?料理出てきたらパシャ、とか
あれは携帯電話、
写真を撮る行為をはじめとする携帯電話やスマートフォンをいじる
今回のにんけんは、
2016年11月のにんげん研究会
「にんげん研究会」(にんけん)とは、鳥取大学の学生らといっしょに、
"にんげん" をテーマに研究する集まりです。
仕事以外の興味関心を、本を読んだり人に聞いたり話したりして調査し、
研究会で発見したことなどを自由に発表し合います。
オープンな会ですので、県内外問わずお気軽にご参加ください。
どなたでも参加OK、途中入退場も可能ですので、
お知り合いもお誘いあわせの上お越しください。お待ちしてます!
今月のにんけんは、11月24日(木)にたみにて「限界芸術論」の輪読を行います。
本の作者の鶴見俊輔は、専門家によってつくられ、専門家によって受け入れられる
芸術を「純粋芸術」(Pure Art)、同じく専門家によってつくられますが、大衆に
楽しまれる芸術を「大衆芸術」(Popular Art)としたうえで、非専門的芸術家に
よってつくられ、非専門的享受者によって享受される芸術を「限界芸術」
(Marginal Art)と考えました。限界芸術の具体例として鶴見が挙げたのは、
落書き、手紙、祭り、早口言葉、替え歌、鼻歌、デモなど、私たちの誰もが
日常生活で繰り返している身ぶりや言葉です。
それらは一見すると「芸術」とは隔たりがあるように思われますが、鶴見によれば
芸術とは美的経験を直接的につくりだす記号であり、この観点に立てば、ふだんの
暮らしの中での美的経験は、展覧会で絵画を鑑賞する美的経験などよりも、かなり
幅広い拡がりをもっていることがわかります。
こうした生活の様式であると同時に芸術の様式でもあるような領域を、言い換えれば
生活と芸術が重なり合う「のりしろ」の部分を、鶴見は限界芸術であると考えました。
今回は、「限界芸術論」という本の内容を紹介しながら、生活と芸術が重なり合う
「限界芸術」についてみなさんとトークして行きたいと考えています。
◆キーワード
・芸術
・美的経験
気になるキーワードのある方は、ぜひご参加ください!
投稿末尾に本の概要を記載しておりますのでこちらも併せてご覧ください。
日 時|11月24日(木)19:00?21:00
場 所|ゲストハウスたみ
参加費|無料
企画・運営:鳥取大学にんげん研究会(地域学部五島・仲野・小泉・筒井研究室)
お問い合わせ:ninninninlab@gmail.com
にんげん研究会facebook:https://www.facebook.com/ningenkenkyukai/?fref=ts
【本の概要】
芸術と生活の境界に位置する広大な領域、専門的芸術家によるのでなく、
非専門的芸術家によって作られ大衆によって享受される芸術、それが「限界芸術」
である。五千年前のアルタミラの壁画以来、落書き、民謡、盆栽、花火、都々逸に
いたるまで、暮らしを舞台に人々の心にわき上がり、ほとばしり、形を変えてきた
限界芸術とは何か。その先達である柳宗悦、宮沢賢治、柳田国男らの仕事をたどり、
実践例として黒岩涙香の生涯や三遊亭円朝の身振りなどを論じた、戦後日本を代表
する文化論。